映画「デンジャー・クロース 極限着弾」公式サイト » コラム

ベトナム戦争へのオーストラリア軍介入と
ロングタンの戦い

――デューク廣井(軍事評論家)

ベトナム戦争は宣戦布告なき戦争と言われている。時の宗主国フランスとのインドシナ戦争の後、1954年のジュネーブ協定により北緯17度から南北に分断されたまま予定された総選挙も行われず、列強の思惑に翻弄され放置された結果がこの泥沼の紛争である。その後送り込まれた東西の軍事顧問団が何時しか膨張し東西代理戦争へと向かうのであった。

1960年 反政府派は南ベトナム民族解放戦線(National Liberation Front)を結成、その趣旨を宣言しゲリラ活動テロ活動を開始したのである。この南ベトナム民族解放戦線(以下NFL)、ベトコンと蔑称される民兵組織であり正規兵ではないので民間人と区別がつかず後に多くの禍根を残す組織であり南ベトナム政府の中枢にも少なからずメンバーがいた事が後年明らかになっている。

しかしながら依然、戦闘は南ベトナム軍と行動を共にする米国軍事顧問と小競り合いを展開する程度であったが、アメリカが本格介入に踏み切った1965年 遂に米陸軍第1騎兵師団と南ベトナム軍の連合軍VS北ベトナム人民軍(North Vietnamese Army )が激突し本格的戦争状態に突入した。この戦闘が2002年のアメリカ映画「ワンス・アンド・フォーエバー」で描かれたイア・ドラン渓谷の戦闘である。これを受け反共軍事同盟東南アジア条約機構(SEATO)に加盟していたオーストラリアもベトナムを反共の砦とすべく前進防衛を政策に打ち出し、本格的な軍事介入に踏み切った。1966年までには軍事顧問団をコミットメント増強するための6,000名を派兵し積極的にベトナム戦争に参加していったのであった。

しかしてオーストラリア陸軍とニュージーランド陸軍の部隊は本作に描かれる伝説の大戦闘ロングタンの戦いに臨む事となる。さて本作の主人公となる第1オーストラリア・タスク・フォース(以下1ATF)は1966年4月から6月にかけてフオックトゥイに到着し、ヌイダットにあるゴム農園に拠点となる基地を建設した。これは揚陸の要であるブンタウ港の連合軍による支配を確実にするためと軍の移動及び兵站ルートを確保するためにはフオックトゥイでの極めて政治的な政府権限を拡大しなければならなかったためである。1ATFは、周囲の道路を介して前方に直接リンクするロジスティックな拠点設立に努めた。

これに対し北ベトナム人民軍275連隊(以下NVA)は同年8月16日までに、ヌイダット基地の砲火射程範囲外のロングタン近くに進出、8月16日の夕刻から17日にかけて、迫撃砲、反動砲を以て東方の2キロメートル地点からヌイダット基地を攻撃した。本作冒頭でも描かれたこの攻撃によりヌイダット基地施設の一部は破壊され負傷24戦死1を出したが、NVAの砲撃位置を的確に掴んだ味方砲兵隊の反擊砲火によりこれは沈黙した。

翌朝1ATF旗下 大隊長コリン・タウンゼンド中佐のローヤル・オーストラリア連隊第6大隊(以下6RAR)B中隊に基地の東側エリアのNVA掃討及び発砲点・撤退方向確認が下令され、パトロールと索敵殲滅任務に赴く、作戦名「スミスフィールド」の発動であった。そしてB中隊は作戦行動中、迫撃砲と無反動砲を含む武器ピット発見に至ったのである。

その後8月18日の朝にはハリー・スミス少佐率いる6RAR-D中隊に交代し任務を続行する事になる。D中隊がゴム農園付近、まさにロングタンを索敵掃討中、突如連隊規模のNFL・NVA部隊と接触し、たちまちの内に3方面からの猛攻撃に晒された。これが6RAR-D中隊108人vs NFL・NVA部隊2,000人と推定されるロングタンの戦いのはじまりたった。激しい豪雨とプランテーションを覆う濃い霧の下での戦闘は過酷を極め3時間以上に渡り戦ったとされている。数時間後激しい戦闘が続き弾薬も尽きかける最中、ローヤル・オーストラリア空軍第9飛行隊から2機のUH-1Bイロコイが補給のために頭上に飛来、急報を受けた大隊長コリン・タウンゼンド中佐は将軍を説伏せ留守居部隊のA中隊B中隊そして第1装甲兵員輸送中隊に援軍を命じた。

しかし敵兵は目前に迫る!決断は砲撃要請デンジャークロスだった。絶えない窮地の中、最初に到着したのはB中隊のパトロール、続いてA中隊も到着、第1装甲兵員輸送中隊7輌のM113装甲兵員輸送車APCが形成されていたNFL・NVA部隊の包囲陣形に対する攻撃を開始した。強力な火砲の援護を受けてD中隊は各隊と合流、ヌイダットからの騎兵・歩兵の救援部隊は攻撃の手を緩めずNFL・NVA部隊は退却を余儀なくされたのである。しかし戦果の程は、翌日まで不明であった。確認されたNFL・NVA部隊の戦死者245人、味方の損害は6RARの17名と第1装甲人員輸送隊の1名が戦死した。
と言うのが史実! 実際の戦闘詳報と記録に沿った作品となっている。

後にD中隊は当時のリンドンB.ジョンソン大統領 によって叙勲、D中隊のみならずRARの各部隊、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカのさまざまな部隊の貢献、天候を選ばず飛んだRAAFヘリコプター搭乗員の勇敢さを讃えた。有能な指揮官、不撓不屈の精神と仲間を思う心そしてチ―ムワークそれこそがこの勝利を可能にしたのである。

他のベトナム戦争映画と比較してみると、題材やストーリーの趣旨は「ワンス・アンド・フォーエバー」のそれを踏襲しているかのようだ。厭戦気分のない初期のベトナム戦争である。戦争後期を描いた作品でも1987年のアメリカ映画「ハンバーガー・ヒル」はラストの達成感が近いかもしれない。1979年公開のアメリカ映画「地獄の黙示録」や1986年公開の「プラトーン」とは一線を画している作品である。